July 08, 2023

Joeのはなし。

 南の小さな島にも髪を切る店は何軒かあって。

どの店も当然、日本の美容室のようなセンスやテクニックは期待できないし、期待もしてないいだけど、とはいえ周りから「あそこはマシだよ」と言われた店で散髪してます。

茶色の長髪で、おばさんのようなおじさんのJoeがやっている店。ハサミは滅多に使わず、バリカンだけで器用にカットしてくれます。

いつも割と混んでる店だけど、ある土曜日の朝、早めに行ったら僕がその日最初の客で、一人。

Joeの英語と僕の英語はなんだかすごいズレててよく通じないんだけど、僕が日本人だと分かると、問わず語りにJoeの話をしてくれました。ときどき、なよっとした笑いを挟んで、ときどき、僕の肩を触りながら。

1989年からヘアーカットの仕事を始めた。
この島に来て12年になる。
若い頃、日本に行ったことがある。日本では週末にダンスの練習をしていたわ。
日本で稼いだ友達が何人もいる。フィリピンに戻ってジャグジー付きの大きなプールがある家や、コンドミニアムのビルを建てた。そこによく誘われたのよ。
日本は自分みたいなゲイでも問題なかった。性転換して豊胸手術してダンサーやって稼いだ友達もいる。私はそうしなかったけど。
あんな札束を見たのは、あのときだけだったわ。
マニラは日本と同じ、なんでもある大きな街。この島では稼げない。でも、いいの。使うところもないから。ここにマニラみたいなショッピングモールはないでしょ。服も靴も、中国製の売ってるものを買うだけ。
いつか、また日本に行くとき、あなた手伝ってくれる?

* * *

そうか、日本でフィピンパブが流行って、フィリピン人ダンサーがたくさんいた頃のはなしで、たぶんJoeは、ルビー・モレノと同じくらいの世代。

Joeはいつもより時間をかけて、僕の髪はいつもよりだいぶ短くなった。


July 02, 2023

人口の少ない島で暮らす。

 


結構な数の開発途上国にそれなりの期間滞在してみて、さらには住んでみて、それぞれの国の生活のハードシップ、困難さについて考えることがあります。

そりゃね、アフリカは大変だった。インドも大変だった。東南アジアの某国も、街から離れたところは大変だった。

それで今、太平洋の島に長居しているんですけど、で、ここは一人当たりGDPとかそういう指標で見ると割と開発水準の高い国ということになっているんですけど、でもまたアフリカやインドとは別の生活の厳しさがあるなと。

そう感じる最大の原因は、なんといっても人が少ないこと。今のこの島の人口は3万数千人。この程度の人口だと、ちょっと凝ったサービスや商品はマーケットが小さ過ぎて商売として成立しないので、入手困難になっちゃう。

病院はある。最低限の内科医、外科医くらいはいそう。でも、専門医はいない。X線写真は撮れるけど内視鏡は無理。メガネもたぶん作れないし、歯科医もまともなのはいない。

服や靴の選択肢はない。あるもの、サイズの合うものを買うしかない。

決まりきった食べものしかない。現地の人が好んで食べるもの以外は、希少だったり入手できなかったり。

あらゆるものの選択肢が限られる。食品、電化製品、車、文具や工具、食器や生活雑貨、家具や寝具、みんなあることはあるんだけど、「えー、これだけ?」っていう中から選ぶしかない。もしくは2、3か月はかかる海外からのお取り寄せになる。それもかなり割高の。

死にはしないんだけど、生活の質はかなり悪い。いや、事故や怪我、心筋梗塞や脳梗塞だと救急治療は怪しくて、日本だと助かるものも、ここだとやばいな。

ところが、島の人たちの平均的な金銭収入はそんなに低くない。なので、貧困国とはみなされない。生まれながらにこの島の人はそれが当たり前なので、不便なんかそんなに感じてない様子。

たとえ開発途上国でも、人口が多ければ一定の中間層や富裕層がいて、また外国人のコミュニティもそれなりの規模があって、首都ではそれなりのサービスが揃ったりするものです。ガーナのアクラにだって寿司屋はあるし、ジンバブエのハラレにだってフライドチキンやハンバーガーのチェーン店はある。

それが人口3万人で孤立している島だと市場が成立しないので、日本みたいな消費者が王様の国から来ると、とんでもなくクオリティ・オブ・ライフの低いところになっちゃう。

ノーベル経済学賞を受賞したアマーティア・セン博士は、「豊かさとは選択肢があること」と喝破したそうだけど、まさにそう。このセン博士のいう意味で、島は貧しい。お金は持っていても。

人口3万人の島には大学もない。若い人たちにとっては、島でなんとなく生きててもそれなりに楽しくは暮らしていけるんだろうけど、人生の選択肢が少ない。結果、若い人たちは就学と就労のために、また大人も子供も病気になれば治療のために島を出てしまうので、元々人口が少ないのにさらに人口流出が起きていることが問題となってしまってます。

May 20, 2023

海外暮らしと日本の暮らし


24歳まで九州の地元から引っ越したことがなかったけど、就職して上京したら日本人に馴染みの薄いマイナーな国への出張を繰り返すようになり、30歳を過ぎた頃に最初の海外赴任。中東。

赴任を終えて帰国するも転職を繰り返し、やがてアフリカ赴任の話をもらってそこで5年。

いい加減、転職は難しい年齢になってしまったけど、今は訳あって南洋の島暮らし。

とはいえ、年に1回くらいは帰国し、東京と地元九州でしばらく過ごすという休暇を取っています。今回も約1か月の一時帰国。この時ばかりと日本の友人知人たちに会い、食べたいものを食べています。

人生のいい時期をかなりの間、変な途上国で過ごしてしまい、東京や地元のよさを十分に味わえなかった一抹の後悔を、一時帰国のときに感じます。それを埋め合わせるかのような1か月です。

しかし後悔はするかもしれないけど、後悔をするのも、海外に出て日本の良さを知ったからなんですよね。

時間には限りはあって、ずっと日本で暮らし続けることと、海外暮らしをすることの両方を満たすことはできなかったのです。これでよかったとしか言えない。「ずっと日本で生活するという選択肢もあったよな」と思うのは、後悔とさえ言えない、郷愁や懐古に近いのかも。

時間、エネルギー、若さ。限られた資源をどう使うか。トレードオフ。

年を重ねるということは、限られた資源をどこに使い、ありえた選択肢の何を捨てるかを決め続けることだったのでした。


December 29, 2022

お誕生日おめでとう、自分。


みなさま、お誕生日のメッセージありがとうございました。

年末の仕事納めの日が誕生日で、毎年否が応でも一年を振り返る日になってしまいます。

2022年、疫病に戦争に暗殺と、ほんの数年前だったら「まさか」と失笑を買うに違いない出来事が続いて、当たり前と思っていたことが当たり前ではなかったのだと認識する年でした。

仕事の上でも世の中の情勢を受けた動きがあったりして、「大丈夫なんか?」と不安が先立つことも多かったです。

そして。
2022年は一番親しい友達の一人を亡くしました。同年代の友達で、悲しいという単語では表現できない喪失感を、いまだに噛み締めているところです。

それでも明日はやってくる。まもなく新しい年を迎えます。大きなことはできないんだけど、少なくとも選べることがあれば、世の中にとって良い方を選ぶようにしよう、今はそんな風に考えています。

みなさま、よいお年を!

September 24, 2022

一時帰国の件。


しばらく日本で働いていたので「一時帰国」の感覚から遠ざかっていましたが、久しぶりに「一時帰国」。4か国目の海外暮らしがちょうど1年になりました。

およそ1か月の予定で、実家のある福岡と、東京と。

胃と大腸の内視鏡検査を含む人間ドック。胸部レントゲンの怪しい写り込みは、その日のうちにCT撮影してもらえて助かりました。

歯の治療。通常なら7回くらい通院する治療内容を3回で。小林先生、いつもありがとうございます。

皮膚科も。水虫かと思っていたところは、そうじゃなかったです。

東京の本社に顔出して、報告と相談。

3月に亡くなった友人の葬儀に行けなかったので、遺灰を預かっておられる彼のお姉さんのところにご挨拶。

実家。父と、柴犬のマルと、母の三回忌。甥っ子と焼肉。

ロイヤルホスト、28蕎麦、カステリーナ、餃子の福包、三是寿司、神戸屋、ぱいかじ、ディストリクト、第一玉屋寿司、ウエスト、アイヤラー、聘珍樓、十六番館、ブルックリン・パーラー、峯松本店、江藤家、南国酒家、ふもと赤鶏、ごはんなかよし、さんさん、セガフレード、伊勢屋、濠、真田、ターリー屋、ライフ・サン、アネアカフェ、稲田屋はなれ、バンコクガーデン、龍、ジョーカー、ロティセリエ・ブルー、サイゼリヤ、梢、一品香、亜李蘭別邸、牛時。

ふじもとさん、たかおさん、なかむらさん、ふじもとさん、あそうさん、みやたさん、はばさん、ありまさん、こたにさん、たまおきさん、たなせさん、もりたさん、みやけさん、わきざかさん、つちやさん、なおこちゃん、あさこちゃん、ななちゃん、はるくん、おとうさん。

お腹いっぱい、胸いっぱいの一時帰国。みなさんありがとうございました。

また一頑張りしてきます。

March 31, 2022

(追悼)Nのこと。



 「困ったな。」

咄嗟のことに何も言えなくて、ようやく出てきた言葉がそれだった。

ビデオ通話で話したい、そう言われて何事かなと思ったら、

「Nが亡くなりました。」

と彼は言う。見ると泣き腫らした目をしてる。

そうか、こういう時は泣くのか。でも、唐突すぎて、何の反応もできない。

「困ったな。」

そう、困るんだ。Nがいなくなると。

僕が、よりによってこの新型コロナの折に海外赴任しようとしてあちこちで足止め食らって、赴任したらしたで今度はそこから出れなくなって、そんなこんなでしばらくNには会えていなかった。もしかして1年近く会ってないのか。

でも、Nを拠り所にしてたんだ、実は。

「これは今度会う時に。」

「これ、聞いてみよう。」

「これ自慢してやろ。」

いつもNの存在があったのに。やいのやいの言いながら、結局頼ってたのに。

*   *   *

Nとは大人になってから親しくなった。近くにいるから、級友だからと親しくなる子供の友達ではない。大人になって、ちゃんと自分が自分として独り立ちしてから親しくなった。そういう貴重な友人だった。

僕とはタイプの違う人種だったけど、逆にそれが良かったのかもしれない。ベタベタするわけでもない、大人の友達の距離感が良かったのか。

そして、僕はNとたくさん旅をした。

石垣島、波照間島、八丈島、ジンバブエ、アゾレス諸島、谷川岳、ラダック。。。

新型コロナのせいで出入国制限が厳しくなってしばらく旅には出られてなかったけど、今僕がいる国の国境規制が緩和されたら、真っ先に来るのはNのはずだった。その時はNのパートナーも一緒の予定だったよな。

Nは、昔、僕と知り合うよりも前、この国に来ようとしたけど都合が合わなくて目的地を変更したことがあったという。でも、旅先の情報収集はしていて、その時入手したというこの国の立派な地図を、僕の赴任に際して餞別がわりに持たせてくれた。


なんだよ。遺品じゃないんだからさ。

最後に一緒に旅行したのはラダックってことになってしまうわけ?

Nが病院に入ったというその日も、僕のLINEメッセージには普段と変わりない返事をしてたじゃないか。

渋谷で、新宿で、数えきれないほど、毎週のように飲んだじゃないか。そうそう、桜の季節には、今はもうないあの渋谷のバーによく行ったよな。窓から満開の桜がよく見えた。

*   *   *

Nは中島みゆきのファンで、地平線しか見えないようなアフリカの平原の一本道を2人でドライブした時も、Nはカーオーディオで中島みゆきを流した。なかなかシュールな時間だったよ。

そうか、中島みゆきか。Apple Musicで探して運転しながらかけてみると、訳がわからない涙が出る。運転できないじゃないか。


困るよ、いなくなられると。



August 28, 2021

新型コロナの渦中に、南の島に行く。

 


南太平洋の島ですよ。そう言われたのは2020年のたしか2月頃でした。そして本決まりになったのが4月。

アフリカから帰国してから既に7年が経過し、そろそろまた海外で仕事をする話になることは想定済み、母の病状が思わしくないのでできれば近い国がいいなと思っていたので、南洋の島国を持ちかけられた時にもそこまでの驚きはなく。

しかし新型コロナの感染が世界的に広がり始め、前の年の11月や年明け2月に予定していた海外出張がキャンセルになっていて、そんな時期に南の島になんか赴任できないよな。

案の定、太平洋の島国はどこも我先にと外からの人の入国受け入れを厳格化し始めました。島という孤立した環境では一度ウィルスが入ってきてしまうと手に負えない、十分な医療体制もないので仕方ない。とりあえず国境を閉じるしかない。

・・・それから1年半近く経ちました。島の人々の感染症に対する過剰なまでの恐怖心も相まって事実上の鎖国が続き、感染者ゼロを記録してはいましたが、海外に取り残されて帰国を希望する自国民にさえ入国を認めないなんていうことをいつまでも続けるわけにもいかず、極端に厳格で神経質な検疫管理措置と引き換えに、少しづつ少しづつ、外からの人を受け入れ始めています。

1年半の間に母が他界し、四十九日が過ぎ、初盆まで迎えました。母が最期に僕にかけた言葉は「いつ行くとね?」でしたよ。

母よ、その答えは2021年8月でした。あなたの初盆の法会の後、すぐ。

検疫だの隔離だの消毒だの、成田を出発して2週間が経ってもまだ最終目的地に着いていないけど、どこにいても海を感じられる小さな町で、自分史上4か国目の海外勤務が始まろうとしています。



March 20, 2021

冒険する人、慎重な人。

 リスクの認識には本能的に個人差があって、それは動物としてのヒトの生き残りに意味があったのだと思う。神経質で怖がりなタイプは生活の維持や子育てに有利だったはずだし、冒険的で怖いのも知らずなタイプは生活圏の拡大や新しい食料の獲得に貢献したはず。だから今でも、冒険的なタイプから慎重なタイプまで、人のリスクの認識には幅があるんだろうね。

 しかし動物としてのヒトは大きく進歩して、知能を駆使し自然を分析し理解する種となり、かなりのところまで科学的、定量的にリスクを評価できるようになりました。社会全体として、人類として、より有利なリスクの取り方ができるようになったはずです。

 そうすると、科学的、合理的なリスクの取り方が、個々人の直感に反することも出てくる。合理的に考えれば安全なんだけど安心できない、みたいなね。

 みんなの利益、よりよい社会のためには直感に反することでも乗り越えていく必要があるでしょう。いつまでも「お気持ち」優先ではいけないし、そこにリスクコミュニケーションが期待され、マスコミの役割が重要になるはずなんだけどな。

 とはいえ、マスコミもボランティアじゃ維持できないし、収益を考えなくちゃならない。収益考えたら娯楽、お気持ち大事だし、難しいね。

March 14, 2021

2011年3月11日、僕は在留邦人でした。


 あの日僕は南アからロンドンに移動していて、ヨハネスバークの空港のテレビで津波のニュースを見た見ず知らずの人たちから「お前は日本人か?大丈夫か?」とたくさん声をかけられた。

 ロンドンのホテルで受付のお兄さんが、普段は有料のインターネット接続を無料にしてくれて「これで日本のニュースを見れるよ」と。

 ロンドンの事務所での用務を済ませて、あとはホテルの部屋でネットばかり見てた。「がんばれ、日本。がんばれ、東北。」と日本語で書かれた英字紙が届けられた。

 素直にその気持ちがありがたかった。

 僕の親戚縁者は九州に集中してる。当時の同僚の日本人もなぜか西日本出身者ばかりで、生命財産に直接被害を受けた人が周りにおらず、当事者感覚が薄いと言われればそうかもしれない。

 それでも、何もできず、何もする気にならず、ただただ気を揉んでいる間に時間は過ぎていった。

 2011年3月11日、僕はTwitterで一言だけツイート投稿している。

 「祈るしかない。」

March 07, 2021

10回目の3月11日を前に。


 はっきりした四季の移り変わりで時の流れを五感で覚える。

花が咲き、花が散るのを見て、何事もとどまることなく移りゆくことを知る。

時には大雨、大風、そして地震、また火山の噴火に襲われ、変わらないと思っていたものも果敢なく失われることを思い知らされる。

形あるものはいつかは壊れることが前提。永遠の時に耐える建物ではなく、木と紙の家を建てた人々。

それなりの月日が経つと社ごと建て替えてしまうことをしきたりとして、式年遷宮を行うお宮は伊勢神宮だけではない。天皇の代替わりという国の一大儀式であるはずの大嘗祭をその時のためだけに建てたお社で執り行い、式が終わると解体してしまう。

(そんな国に、世界でもっとも古い木造建築が現存し、百年どころか数百年、中には千年の歴史を誇る会社組織が多数存在しているのが逆説的でおもしろいのだけど。)

むしろはかなさを内に取り込み、時々に万物の営みを愛で、嘆き、喜びも悲しみもただそのままに受け止める。その心持ちこそ「もののあはれ」なのかなと。

そして僕たちは、明日も生きていく。

*   *   *

東日本大震災10年の節目。

February 23, 2021

色褪せた暮らし。


 


 優に1年を超えました。新型コロナ感染症が騒ぎになってから。

 誰かが「色褪せた暮らし」と表現していて、まさにそうだなと。

 仕事にも私生活にも大きな変化を強いられ、中には大変な苦境に陥る人もあり、経済もガタガタ。しかし大方の人はぶつくさ言いながらも生き延び、なんとか暮らしを守ってる。「不要不急」と言われたものが生活の中から消え、人との出会いが減り、会話が減り、雑談が減った。なにしろ今の日本は単身世帯が35%を占めていて、家族以外と会うなと言われたら一人になっちゃう人が少なくない。それでもみんな生きている。食べて、人とあまり会わずに仕事して、寝る。

 綾波レイかよ。

 戦争や大震災の時みたいに暮らしが破綻したわけではない。その気になればオンラインであれば人と話はできる。暮らしは回っている。なんなら株価は30年来の最高値。

 それでも、だ。色が、彩(いろどり)がすっかり失せてしまった。味気ない日々。

*   *   *

 生物種としてのヒトが人になったのは、死を認識するようになってからだという説がある。動物は死を認識しない。今を生きているだけ、眼前にある環境に最適な反応をしているだけの有機的なシステムで、システムが劣化、老化して動作が止まってしまえばそこまで。ところが人は、生体活動が停止して生物が物体に変わるのを見て、そこにあった意識や人格、知恵や経験、その人の存在が失われてしまうことまでも意識する。


 先史時代の墓所の遺跡を分析すると、人骨とともに花粉の痕跡が検出されることがある。死を認識した人が、亡くなった家族に、同胞に、花を手向けた証拠だという。

 色だ。花の色。

 言ってみれば、花を手向けることも「不要不急」。花を供えたからといってお腹いっぱいになるわけでないし、敵から逃れられるわけでもない。でも、人は色を添える。

 人は不要不急のことで人たりえている。人は色を愛でるから人だ。

「色褪せた暮らし」が終わるのが待ち遠しいね。

December 31, 2020

さよなら2020年。


2020年。
そろそろまた海外暮らしかなという予感もあって、元々変化の年だと思ってましたが、こんなことになるとは。
どうしたものかと思い悩んだものの、結局は身動き出来ず待機、待機、様子見の日々。
そんな最中に母が亡くなりました。
これまでとは違う時代、違う自分への移行期となる1年だったように思います。
お世話になったみなさま、ありがとうございました。出会ったみなさま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

The year 2020.
Although It was anticipated that I might start a new life overseas and it would be a year of changes, I didn’t expect a year as such.
I pondered a lot but what I could do was just waiting, waiting and looking around.
During that period, my mum passed away.
I think the 2020 was a year to shift towards a new, different era and different me.
Thank you for your kind support in 2020 and I’m looking forward to enjoying a coming year together with you.

December 01, 2020

グアムに来ています。

 

 日本では新型コロナ流行の第三波がメディアを賑わせているところですが、グアムに来ています。グアムに来ていると言っても、飛行機が着陸したら即、機側から関係者に付き添われ、あっという間にホテルまで直送されて隔離されてます。東京を出る直前のPCR検査でも、グアムで受けたPCR検査でも陰性なのですが、隔離されてます。

 たしか2019年11月が新型コロナ流行前の最後の海外出張でしたので、それから約1年。それまでは海外出張の合間に海外旅行に行くようなことをして、2か月に1回くらいはどっかに行ってるような生活でした。なので丸々1年まったく国外に出なかったのは久しぶりなのですが、出国したとはいえホテルの部屋からは出られないので、あまり意味はないですね。


 誰しもがいつもと違う1年を味わう羽目になった2020年でした。12月になったばかりで2020年はまだ1か月残っていますし、まだこれからもおおごとが起きそうですが、個人的にももうここまでで十分、身心に重くのし掛かる出来事が続きました。

 予定していた仕事が新型コロナの流行を受けてぽつぽつと延期や中止となっていた年の初め、久しぶりの海外勤務を打診され、4月にはそれが確定。しかし実際にはいつ赴任できるかは目処が立たず、基本的に国内待機。ちょうど緊急事態宣言が出てた時期に重なり、身動きができない状態に。
 収入は減ったものの幸い独り身で食うに困るほどではなく、とはいえいつ赴任が可能になるか見通しが立たず、住むところをどうするか問題が浮上。赴任時期が確定していれば今の住処を退去する時期も決められるけど、いつまで東京にいなくちゃいけないのかはっきりしない状態でどう住むところを確保するのか。家財はどう処理するのか。

 3年余り福岡の実家で入退院を繰り返していた母の体調が芳しくないとの連絡を受けていたのもこの頃。一方で僕の海外赴任がいつ決行になるのか分からない。おまけに新型コロナ流行のせいで県境を越える国内移動は控えよという圧力。簡単に福岡に戻るわけにもいかない。

 そもそも中東やアフリカの経験が長い僕の久しぶりの海外赴任が大洋州になったのは、母の容体を考えると出来れば日本に近い、往来しやすいところがいいと考えたためだったのに、何が何やら分からなくなってしまいました。


 9月に母が他界。この時点でまだ僕の海外赴任時期はぐずぐずと調整が続いていて、なんだかんだ言いながら福岡に戻って母の最期を見取り、葬儀にも立ち会うことができたのはまさに字義どおり不幸中の幸い言えました。それどころか、少し早めにやった四十九日の法要まで日本にいることができました。いずれも感染防止のためできるだけ参列を遠慮していただくようみなさんにお願いして静かなものになりましたけれど。

 そして11月。それも11月16日になって19日に出国できる手筈が整ったとの連絡を受け、実質3日間で慌ただしく身辺整理。しんみり感傷に浸る間もなく成田からグアムに移動して、今に至ります。そしてこの後、最終目的地到着まではまだしばらくかかりそうです。


 例年に比べて自殺者が大幅に増えてしまうほど、たくさんの人たちの生活が狂ってしまった2020年。自分こそは大変だったと自慢しても詮無きことですが、世の中こんな境遇に陥った人もいる、ということでメモ残しておく次第です。

September 29, 2020

母が亡くなりました。

母が最期に見た景色。福岡タワーとドーム球場。


母が亡くなりました。
明日が72歳の誕生日という日でした。

親より早死にしない限りみんな経験することだし、母を失う心情は古来より文才のある多くの人が優れた筆致で綴っていることなので、あえて僕が何か書くことではないのかもしれないと思いつつ、さりとてやはり人生にただ一回のユニークな出来事であり、思うところは書き付けておきたいと思いました。

*   *   *

複雑な劣等感を抱え、天邪鬼で、付き合いの難しいところもあって、理想的な母親とは言えない人だったかもしれませんが、僕を産んだ人であり、育てた人であり、いつも僕を気にかけてくれてた人であり、また僕が常に気をかけてきた人でもあり、その人がこの世界からいなくなるという喪失感は重いものがあります。葬儀を終え、初七日を終えても、身の回りのほんの些細なことにつけていちいちあの日あの時の母の様子が思い出され、手が止まってしまいます。

特に病気の診断がついてから息を引き取るまでの3年9ヶ月は、不治の病だということもあり、自分の感情を自分で面倒見ることができず、周りに不満を撒き散らし、いっそう扱いの難しい人になっていました。経験もしたことないのにおいそれと「分かります」とは言えないですが、そうなるのも無理からぬことだとは思います。人生が終わるのですから。

それでもあの人が何を考えていたのか。決して恵まれているとはいえない境遇に生まれ、幼い頃から弟たちの世話や家事に明け暮れ、早くに働きはじめて職場で知り合った父と結婚し、多くの月日を子育てや祖父祖母の世話に追われた人生の中で何を思っていたのか、最期に「よかった」と思って旅立つことができたのか、考えても詮無きこととはいえやはり母の人生を思わずにはいられません。

*   *   *

葬儀でお経を上げてくれた浄土真宗の導師は、死を認識するのは人間だけだと話されていました。もしかしたら大型類人猿も認識しているのかもしれませんが、大まかに言ってそのとおりなのでしょう。

宇宙に散らばった原子はやがて星を形成し、星の上では複雑な分子が形成され、そこから有機物が生まれ、生物が生まれる。生物は進化の過程で神経系を発達させ、脳という器官を生み出しました。そして地球という惑星の上での生物の生存競争の果てに、ヒトという生物は「意識」を持つようになりました。「意識」とはなんなのか今ひとつよく分かりませんが、とにもかくにも自分という存在が生きているという自覚を持つようになったのです。

僕らの意識、精神の働きは脳や体を構成する原子、分子の構造やその中を行き交う電気の刺激に還元できるのか、それら原子、分子の足し算だけでは説明できないものなのか。説明できないという人は、そこに霊魂の存在を見るのでしょう。

母は亡くなりました。

しかし僕は、そこに霊魂の存在を見出さない、科学を尊ぶ種類の人間です。母の体は病に冒され、生きている人としての有機的で動的な生命活動を維持できなくなり、意識は薄れ、やがて身体の代謝も停止したのだと理解しました。

ただ、無に帰ったのだと考えています。

お経を上げてくれた導師は「みんな御仏になって」とか仰っていたし、家族や親戚も母は先に亡くなった祖父母や叔父たちとやっと一緒になれるでしょう、という話をしています。そう考えた方が救いがあるかもしれません。「意識」を持つようになった人間は、あまりにも不可思議・奇妙な世界、特に死という現象、言い換えれば「意識」の停止という現象に押し潰されないために神とか来世とかの概念を導入し、宗教を必要とするのだと思うのです。

母は亡くなりました。

しかし母の記憶は僕の中に確かに残っています。母と関わった人々の中に、あるいは母のことを聞いた人、見た人の中にも、記憶として残っています。そして記憶というものも、その仕組みはまだ完全に解明されていないにしても、僕らの脳の中に蓄積された細胞や分子や電気信号の繋がりであることは間違い無いと思います。その意味では、母の存在は多くの人々の記憶として、すなわち多くの人々の脳の中の構造として生きていると言えるでしょう。生命活動を行う実体としての母の肉体は終わりを迎え、その意識は失われてしまいましたが。

「人は二度死ぬ。一度目は肉体的な死。二度目はすべての人がその人の存在を忘却した時。」と言います。僕の母は肉体的には死を迎えましたが、僕が生きている限り、二度目の死は来ないのです。

*   *   *

祖父、祖母が亡くなり、母の弟たち、すなわち僕の叔父たちも亡くなり、この理不尽な「死」という現象に向き合うことを少しづつ理解し、いつか来ることが分かっていた母の死にも向き合おうと思っていたのですが、やはり実際に迎えると寂しいものです。ややもすると理性が勝ち過ぎるきらいがあり、「死」というものを科学的、合理主義的な視点で見る僕でさえも、母がいなくなることで感情は掻き乱されます。何を見ても、何もやっても母の影がちらつき、手が止まります。母が息を引き取った日の夜は、母のそばを離れ難く、ずっとその顔を見つめていました。

しかしそしてまた、こうして母が亡くなるという経験を経て、やがてくる僕自身の「死」についても準備が進むような気もしています。

*   *   *

この度の母の逝去にあたり、あたたかいお悔やみ、励ましの言葉をいただいた方々に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。正直たいへんでしたが、そして今もたいへんではありますが、僕は元気です。

May 15, 2020

ラダック再訪。(2)


(前回からの続きです。)

 世の中にはキルギスとかブータンとか、日本人とよく似た風貌の人たちが住むところがありますが、ラダックもそのひとつ。地元の人たちには驚くほど日本人な人がいます。定食屋でビリヤニを食べてたら店に入ってきた数人の軍人さん、その中の若手くんなんか、「近所の高校のサッカー部の部活の帰りです」と言っても違和感ない。日本語を解さないのが不思議なくらい。

 反対に、今回泊めていただいたNyamusyan House Homestayを切り盛りしてらっしゃる池田悦子さんは川崎のご出身、3人のお子さんもみんな日本で生まれた日本人なのに、違和感なくラダックに溶け込んで暮らしていらっしゃる感じでした。一番上のお姉ちゃんが学校に持っていくお弁当が不満だったらしく「ここは日本じゃないんだからあ!」とママに文句言ってたのはご愛嬌。

*   *   *

 Nyamusyan Houseを拠点に1泊2日で小旅行に出かけました。標高が高いところでの本格的なトレッキングは自信がないので、車で途中まで連れて行ってもらって、まねごと程度に半日ほど山歩き。スタート地点からして既に標高3,500m前後、いつもは都内の海抜30mくらいのところで生活している僕には空気が薄くてツライので、そのくらいで勘弁してもらいました。車でYangthong村まで行って民家に1泊、そこからLikirまで、6,000m級の山々を眺めながら歩きます。







 いやもうね、広大でダイナミックな景色はこの土地ならでは。写真では伝わらないこの地の空気。車の中から見るのとは違って、ラダックの大地を生で感じることができました。やはり少しでも歩いてみるべきですね、ここまで来たのなら。ところどころでこの地の暮らしの様子もうかがい知れて、翻って自分の生き方を省みることになるのも旅の妙趣です。
 ただ、平坦なところはいいんですが、ちょっとでも登っているところはいちいち息が上がってたいへん。一緒に行った友人からも時々大きく遅れてしまいまして。高山病になってるわけではないし、歩けるんですけど、ゆっくりしか歩けない。僕は日本人としてはかなり大柄で、エンジンに比べて重量がある車みたいなものでして。でも、それでもやっぱり歩く価値はありますよ。

*   *   *

 翌日は海抜4,000mを超えるところにある湖、Tso Karまで日帰りドライブ。途中、今回の旅で標高が最も高い5,359mのTanglang Laの峠を越えます。


 峠を越えてたどり着いた先はこの眺め。「わー、広いー!」と水辺に向かって駆け出そうとして、「あれ、変だ。動悸が止まらない…」ここが海抜4,000m超であることを思い出します。うっかり張り切って駆け出してしまうと倒れちゃいそうなので、ゆるゆると散策です。






 前回18年前のラダックの旅ではこの先のTso Moriri湖まで足を伸ばしたのですが、今回は日帰りなのでここまで。前回の時の自分の日記を見てみると、僕はTso Karに着く頃にはかなり疲れていて体調も良くなかったらしく、あんまり周りを見る余裕もなかったようですが、今回は湖を眺めながら熱くて甘いお茶を飲んで、双眼鏡で動物も観察して、ゆっくり過ごしてきました。

*   *   *

 インドの旅はいつも裏切られることがありません。旅の目的はいろいろで、まあ一番簡単に行ってしまえばリラックス、リフレッシュなんでしょうが、インドの旅はなんていうか、頭を初期化するような効用があるように思います。都市の暮らし、日本の暮らしで凝り固まった頭をほぐすような。

 まして今回はラダック。インドと聞いてイメージするような人、人、人の波に巻き込まれることもなく、スケールの大きな自然とそこで生活する人々の暮らしと文化を見せていただくことができました。Nyamusyan Houseを切り盛りする池田悦子さんの思い切りのいい生き方をうかがうのも、自分の生き方を振り返り省みるよい機会になりました。

 実はラダックは意外と近い秘境です。東京からデリーまで飛行機で9時間台、そこから乗り換えてレーまで1時間半くらい。思い立ったら行ける場所だし、夏の避暑にも好適で、また行きたいと思う場所になりました。もちろん都市生活にはない不便もあるし薄い空気も体力を奪うので、誰にでもオススメできるわけじゃないですが、インド旅行が好きだという方は、一味違ったインド旅行として次の目的地の選択肢として検討してみてはいかがでしょうか。ぜひ。




August 25, 2019

ラダック再訪。(1)



 もう20年以上も昔、修士課程を終えた記念にインドを旅行してからその魅力を覚え、幾度となく彼の地を訪れています。ジャンムー・カシミール州、ラダック地方も2001年8月に行っているのですが、2019年8月、ラダックに山岳トレッキングに行くという友人に誘われて再度出かけてみました。本格的な山岳トレッキングは僕の燃費の悪い大柄の体躯には荷が重いので、そこは適当に勘弁してもらいつつですけどね。


 最寄りの空港はレー。デリーからLCCで1時間程度で意外と近い。昨今はインドもLCCの航空網が発展して、どこも行きやすくなりました。今回は空港からさらに車で1時間弱、レーの街からインダス川を挟んだ対岸のストク村に宿泊です。インダスを渡るメインの橋が壊れてしまって使えないとかで回り道、レーからはいつもより少し余計に時間がかかるみたいです。
 このページの一番上の写真はストクの村の遠景。背後に見える雪山はストク・カングリ(標高6,154m)。ストク村(標高3,500m強)でも空気薄くてそれなりに大変なのに、みなさんあんなところまで登りに行くんですよ。



 今回泊めていただいたのはNyamushan House Homestay。ラダックの男性と結婚して現地に移り住んだ池田悦子さんが子育てしながら切り盛りしていらっしゃる民宿っぽいお宿です。聞けば住む人がいなくなってた旦那の実家を改装した建物だそうで。地域で最も古い民家のひとつだそうです。

*   *   *

 東京暮らしは嫌いではないし、今の仕事もそれなりに納得してやっている。時々は友達と外食に出かけ、美味しいお酒など楽しむ。それはそれでいいんですけど、その繰り返しも長くなると、なにかどこか、思考が硬直してくる気がします。こんなんでよかったんだっけ?
 時には日常を離れ、自分の生活を俯瞰する時間が必要なようで、それが僕にとっての旅行の意味でした。インドはその旅先としてうってつけ、もう数えるのはやめましたが、10回以上は来ているはずです。


 初日はまだ薄い空気に体が慣れず、ずっと心臓がバクバクしている状態なので、村の中の旧王宮までゆっくりゆっくり散歩。東京の自宅を出てからまともに寝てない寝不足状態もあって、けっこう息が切れます。自分が老人になったときの疑似体験をしているようでした。
 ストクの王宮は19世紀に建てられ、ラダックの王家の住まいだったところだそうです。今はインダス川の対岸のレー市街を見晴らすことができる博物館になっていました。

*   *   *

 翌日はレーの市街へ。空港も近く、この地域で一番の街です。前回訪れたのは18年も前ですが、来てみるとなんとなく思い出すところがあります。もちろん、開発も進んでいて建物も増えているんですが、「たしかこっちに抜け道があった」「当時からここに観光客向けのレストランがあってビールが飲めた」「ここは建築中だったけど、18年経ってまだ建築中なの?」「あの時泊まった宿はこの道の先の左手だった」と記憶がよみがえります。


 18年前は一人旅でした。上京してから数年経って、でも当時も「こんなんじゃないはずだ」と模索の日々で、都内でまた別の大学院に入り直していろいろとめんどくさいことを考えている頃だったはずです。
 一人旅だったけど、車をシェアしたり、同宿だったり、レーから一緒に遠出したりした旅の道連れがいて、実質は一人ではありませんでした。あの時お茶を飲みながらいろんな話を聞かせてくれたオーストリアの女医さん、もう名前も覚えていませんが、ダラムサラでボランティアで医療活動をしてて、ラダックの僧院を巡った後はアムリトサルの黄金寺院を見に行くとおっしゃってましたっけ。「そこは千夜一夜のようなところで、きっと人生も千夜一夜のようなものよ」と微笑みながら、出会った記念にとマニ車のペンダントヘッドを僕にくれました。


 そのペンダントヘッドは、今、まだ僕の手元にあります。あの時から、夜の数は千回を超えましたね。みんなどこで何をしてるのかなあ。

*   *   *

 そろそろ高地にも慣れてきたところで、レーから120kmほどのところにあるLamayuruの僧院(ゴンパ)へ。18年前は砂利道だった道路はすっかりきれいに舗装されていて、途中休憩を取りながら行っても片道4時間はかからないです。


 途中、ザンスカール川とインダス川の合流地点を通ります。川の水は今は茶色だけど、冬には緑色になるそうです。




 Lamayuruのゴンパ。この地域の総本山みたいな僧院です。盛んに建築、増築が進んでいましたが、「今は僧は150人くらいしか住んでないよ。」とのこと。

 レーにはレンタルバイク屋がたくさんあって、ラダックのツーリングも気軽に楽しめそうなんですが、18年前にはまだレンタルバイク屋はありませんでした。でも、もぐりでバイクを貸してくれる人はいて、僕はそれでLamayuruまで来ようとして、でも途中でバイク壊しちゃったんでした。雑にギアチェンジしてクラッチパネルを割ったんです。あの頃キミは若かった。あの時、砂利道をバイクを押して歩いた記憶があるので、この道が舗装されていなかったのは確かです。
 それであの日、なんだかんだあってLamayuruの少し手前のKhaltseの村に一泊することになって。同宿のおじさんと一緒に晩飯食べて、片言の英語で家族の話、宗教の話、インドと日本の話などしたんだっけ。「日本に帰ったら、キミの"inner spirit"を書いてよこしなさい。」そう言っておじさんは僕のノートに自分の名前と住所を書いたんです。
 翌日、宿を出ようとしたら、僕の宿代と飯代はそのおじさんによって支払済でした。すいません、18年経ちましたが、まだお礼も言えてないし、"inner spirit"も書いてません。

 今回はLamayuruの帰り途、Khaltse村でドライバーくんとガイドくんとチャイを飲みながら、そんなことを思い出していました。




(長くなりそうなので一旦ここまで。後編に続きます。)

July 14, 2019

モビリティ。


 この「東京トヨタ渋谷店」、前に通った時には外壁に足場を組んで作業中だったんですけど、出来上がってました。

 ああ、やっぱり。そうだよね。「トヨタモビリティ東京」。 

 カーシェア、コネクテッドカー、自動運転車と車を取り巻く環境は急速に変化しており、「車」の概念さえ変化しそうなこのご時世、トヨタのような会社がその先を見てないはずがない。

 そもそも「車」は何のためにあるのか。人や物をある地点から別の地点に移動させるためです。

 逆に言えば、「人や物をある地点から別の地点に移動させる」ことができれば、なにも今の「車」にこだわる必要はない。

 そう、「車」の概念さえ変化しそうなな時代にあって、自動車メーカーが今のまま「車」を作ってればよいという日々は早かれ遅かれ終わる。

 だから、トヨタは「自動車メーカー」から「移動〜モビリティ〜」を提供する会社と自己定義を変えようとしているに違いない。


July 10, 2019

選挙制度の話。

 現与党の安定多数の議会に不満な人が「与党に投票していない人は80%もいる!なのに議会で多数派!おかしい!」みたいな批判をしているのを見ててモヤモヤする。与党に批判的なことはいいんですけど、その批判の仕方としてこれは筋悪じゃないですか。

 そういう批判をする人は、棄権した人たちがもし投票していれば野党に投票していたはずだという根拠なき自信を持っているところから変なんですが、それを横に置いたとしても、やっぱり考えが浅くないですかねえ。

 たとえばですね、各党の得票数の割合と議席数の割合を一致させるとすると、完全比例代表制ということになるわけですが、これも問題でしょうと。仮に国民の1%の支持がある政党があれば、定員500議席の議会では5議席取れる。こんな調子で、数人、数十人の勢力の小党が乱立すると、意思決定できない議会ができてしまうんじゃないでしょうか。政治はどこかの時点で「決めること」が求められますが、数人、数十人の党がわちゃわちゃしてたら、なかなか物事は決められない。それは困る。迅速性に欠ける。

 んなもんですから、比例代表制ながら足切り制度を導入している国もあるそうですよ。たとえば、有効投票数の5%以下しか得票していない政党には議席は与えないとか。泡沫政党や無所属議員を排除してしまうんですね。なるほど。

 しかしその完全比例代表制はなんだかなあということで、その対極にあるのが多数代表制というか小選挙区制ですよね。「決められる政治」を目指すなら、少しでも得票の多い方の党の主張に沿うのが民主的であるから、各選挙区に議席は1つずつにして、そこで一番たくさん得票した人に議席を与えましょうという考え方。

 これであれば「決められる政治」が生まれやすい。世論の支持が他よりちょっとでも多い方の党がごそっと議席を取るので。

 が、これはこれで問題です。そのときそのときの世論の風で各党の獲得議席数が大きく振れがちで政治の連続性、安定性に欠けるかも。また、自分の投票した候補が当選しない、死票が多くなることも悲しい。

 では、というのでその昔、日本でもやっていた中選挙区制なんていうのもある。1つの選挙区に3議席、4議席とかを割り振る制度。これだと比例代表制と小選挙区制の間くらいになるかと思われるのだけど、またこれはこれで問題がある。かつての日本の場合、3議席なら自民、社会、公明、4議席なら自民、社会、公明、共産、みたいに固定してしまう。与党に逆風が吹いてその支持が落ちても、ただ得票数の順番が「自民、社会、公明」から「社会、自民、公明」になるだけで各党の議席数があんまり変わらなかったりする。この硬直性は問題なのではないかと。世論の動向に鈍感でいいのかと。

 それで政権交代が可能な制度として、日本でも小選挙区制が導入されるようになったんじゃなかったっけ。ただ、小選挙区制一本でいくのもまた不安定だから、小選挙区比例代表並立制なんていうハイブリッドなシステムを作ってみたりして。

 どんな選挙制度にも一長一短あるんだと思う。「決められる政治」「安定した政治」「世論の動きに敏感な政治」。バランスよく、かつ公平公正にしなくてはならないので、選挙制度は試行錯誤。他にも、一票の格差の問題とか選挙区割りの問題とか、考慮しなくてはならないことはいろいろあるし。

 日本の選挙制度がすばらしいというつもりはないですけど、一応そういう工夫の積み重ねで今の制度があることには間違いないし、幸い不正も少ない。世の中には、議席の半分を軍が取るとか、議席の半分を大統領が指名するとかいう制度の国だってあって、そういうのに比べたらマシな気がする。

 そうやって工夫を積み重ねて作ったルールの上で、選挙というゲームをやっているわけでしょう。公になっている、みんなが知ることができるルールがあって、そのルールに従って戦って、勝ったところが政権を取るのは当たり前じゃないですかね。

「与党に投票していない人は80%もいる!」と批判したところでなんら説得力はないじゃん。そういうルールなんだから。

January 25, 2019

アフロ・ジャズ



 Oliver Mtukudziが亡くなった。享年66歳。

 といってもほとんどの日本人は彼を知らないだろう。僕も詳しくは知らない。 

 「有名なミュージシャンだよ。」

 そう誘われてコンサートに行ったんです。日もすっかり落ちたハラレ市内の屋外ステージ、盛り上がってました。それでなんとなく、CD買って帰ってきたんです。

 ギター、ドラムにシンセサイザーの電子音。土着の音楽に根差した反復の多いメロディライン。正直、そこまで凝った作りの楽曲ではない。歌詞は一部英語だけど、ほとんどショナ語で意味分からないし。「アフロ・ジャズ」と言うそうな。

 それでも、聞き直す度に、あれが僕にとってのアフリカのリズムだったなあと郷愁を掻き立てられるのです。

 肩の力の抜けた、人懐っこい人々。だだっ広くて埃っぽい大地。それをそのまま写したような音楽を作る人でした。

 今日はジンバブエや南アフリカのメディアだけでなく、イギリスBBCもその死を悼む報を流しています。

 まあ、ムガベ大統領時代の世相をおちょくるような歌を唄ったり、unicefに楽曲で協力したりもしてたみたいですけどね。

 https://itunes.apple.com/jp/album/wonai/1206939787

 ご冥福をお祈りして、今日はこのアルバムを聞きながら南アフリカのワインを一杯。



December 31, 2018

2018年の忘年会。


忘年会。「それぞれの今年の三大ニュースはなに?」という話が振られまして。

ただ慌しく、でも漫然と2018年を終えたような気がしてたけど、改めて振り返ってみると、それなりにいろいろあったなあと。

いい事ばかりではなかったけれど、その分、この後を生きていくための心持ちが徐々に固まってきたように思う、そんな1年でした。

今年もお世話になりました。
みなさん、よい新年をお迎えくださいませ!


It was asked “What were your personal 3 biggest events in 2018?” at a year-ending party.
Once I thought my 2018 was just busy and one of the ordinary years of mine, but there were lots of significant events, actually.

Not all of them were good ones but they were relevant opportunities for me to think about how to live my life in coming years.

Thank you all for your kindness in 2018 and a happy new year 2019!!